たかだか自分のため

草刈りをした。
ぺんぺん草は草編みで見るような、たくさんの穂をたたえるほどにはまだ実っていない。
ローズマリーを植えていたあたりに、昔から当たり前のようにそこにいたよ、と言わんばかりに大きく広く、葉を茂らせていた植物も、ごめんとつぶやきながら刈り取った。
濃い、青みがかった緑色の葉をしていて、小さな実をたくさん、実らせていた。
まんまるでヘタのついたそれらはトマトに似ていたが、葉の形、産毛の有無を見るにトマトではない。第一トマトが自生したら、ミラクル…なのだろうか。嬉しい限りだけれど。
私がボーっと立ち尽くしている間もせわしなく水をくみ上げ、太陽かその周辺を目指して植物はぐんぐんと手を伸ばす。比喩だ。伸ばしているのは手ではなく大体が茎か葉だ。
話がそれた。
世話をしないでも、私たちの食卓を満たしてくれる植物は大好きだ。
今時分は山蕗、独り生えのニラ、アスパラ。
庭には生えていないが、野蒜、イタドリ。
畑に植物の種、または苗を植えて、無数に迫りくる虫たちから葉を守り、朝と夕にそれぞれ水をやり、あるものは水をやらず、まわりの草を抜き、倒伏しないように竹でささえてやったり、場合によっては藁やマルチを敷いたり、農薬の空いた袋で覆って保温する。
率直に感想を述べるなら、不自然に思う。
畑にビニール質のモノがあるだけでとんでもない違和感を感じる。
もちろん、ひとなみに本を読んで実践してみれば、それらの世話が必要不可欠のものであることも、頭では理解している。
碌に穴を掘らず、種の上から布団をかぶせるかのように土を被せただけ私のトウモロコシは、朝起きるたびに右か左に倒れている。毎日土寄せしている。
とある本によると、トウモロコシの原種は、先人たちがなぜそれを食用に品種改良しようと思ったのか、とうてい想像がつかないくらいに固く、今でいう可食部分はまったく小さかったという。
農業の始まりからして、そもそも不自然なのだろう。
私はたまに、まずいトマトを食べたい。
す、がはいった、辛くてどうしようもなくなった大根も食べたい。
人が手入れした畑や庭を美しいと、綺麗だと、褒めてくれるのは人間だけである。
人間以外に褒められたことあるのか。いや、ない。
頑張って最後まで世話をする。それはしかし、たかだか、自分のためだけである。