薹が立つ体

「死ぬのはいつも他人ばかりなり」と墓銘碑に彫らせた、彼の真意はわからない。
けれど私も多くの例にもれず、私の知り得る死んだ人たちは悉く他人である。
そのうちの2,3人は実は私だった、ということは今のところ起こっていない。
平気な顔をして生きているが、水面下で醜くもがいているわけでもない。
虚しさを拭いきれない夕暮れ、どうしても起き上がりたくない朝、あるにはあったが覚えていない。
時間というものが経過しているため、当時の感情がいま手元にない。
便利だ。私は時間を都合よく従えて、風化しただの、喉元を過ぎただの、饒舌にふるまって私の傷を言葉で塗りつぶす。
もし想念が気体で、空気よりも比重が重く、鼻腔から忍び込んでくるものだとしたら…。
うずくまっていた私はそこかしこに打ちやってあるだけで、一向に風化の気配を見せないのかもしれない。
そうであるならば、解決策は一つ、場所を変えることだろう。
窓外を横切る無数の急ぎ足を眺めるのをやめて、ゴムの木とアップライトピアノが見える席へと移るみたいに、足元に転がっている想念を吸い込んで肺に刺さることのないように、私たちは移動する。
まとわりついた悲しい記憶、滑稽な習慣を、ソールの泥をアスファルトにこすりつけるようにしてそぎ落とす。ここまではいい。私も何度かそうしてきた。
私は今、生れた家に家族を連れて住んでいる。
昔の悲しみは、今こうして未来に向かって加速していく私にとって全く新鮮な想念として蘇ってくる。
幼い頃を二度生きるような錯覚。遠くをN700系の風切り音。身に覚えのない写真。
薹が立ち始めた体引き摺り引き摺り、私は夕暮れ時をうろうろしたり、たたずんだりして迎える。