いつも名前を探している。
今日は電話を何本もかけた。
海沿いで、コーヒーを淹れたいんです。電話口からは、思った以上の困惑が伝わってこない。良い人が電話に出てくれた。
もう一本、おたくの神社の舞台でライブをしたいんです、という電話は、勇気が出ず、明日に先送りした。
私を見つけてもらいたい。
誰にって、他人にほかならない。なんだか変な言い回しだ。
他人は私の頭の中にいるわけでも、五臓六腑をずりずりと蠢いているわけでもない。
この襖を開けた外側にしか存在しないわけで、見つけてもらうために私は外に出なければならない。
生きてゆかねばならない。子供や妻を生かしていかねばならない。
私は首からなにやら恥ずかしい札を下げて、へこへこと物乞いをして、糊口をしのぐ。
これは比喩であるが、事実でもある。なにを得ているか。免罪符である。
小さい頃から、働いてお金を稼ぐことが怖くてたまらなかった。
市場経済の渦の中に巻き込まれること、1円の多寡を争って怒声を上げたり、滑稽な仕草を見せたりすること、電話口で頭を下げること、朝、新聞を読みながら不機嫌でいること。
働くこと、その渦中にいる人、全てが怖かった。
決してダラダラしたかったからではない。自信はないけど。
今でも生きていくことが時折怖い。
人の、生き抜いていこうという強い意志や気迫が、それを目にした私の気を根元から削いでくる。蹴落とされてあしらわれて、私の眼前に灯っていた灯りはもう数えるほどだ。
だが、私にしかできない事というのが見つかりつつもある。
いかりや長介と立川談志の対談で、談志はいかりやに、「優越感を感じさせてくれる相手ってのはそうはいない、だから長さんは大事だ」と言い放った。
人を安心させたい。滑稽な私で笑って、安堵してほしい。
手探りで不細工な畑をするのも、トレンドとは逆行して、時間をかけてとろ火でコーヒー豆を焙煎するのも、へたくそな歌を歌っているのも、すべては誰かの安堵のためだ。
多分言葉で表現するよりも、簡単なことではないだろう。
それでもやる。なぜか。免罪符を得るためである。