溶けた氷の中に

告解室に臨むような気持ちで家の整理をしている。
錆止めスプレーを使ったのは人生で二度目。
匂いを嗅いだ刹那、ものすごいスピードで、私の脳みそにある懐に―脳みその中にもきっと身体はあるだろう―飛び込んできたものは、東寺の大日如来像だった。
あの寺の、講堂だったか金堂だったか、忘れてしまったが、そこに展開されている立体曼荼羅が妙に気に入ってしまって、多い年は県外に住んでいるのに、年に4回以上観に行った覚えがある。
―不気味の谷。
本来は人に似せた創作物が、人間に近づくほど見るものに嫌悪感を与えてしまうという心理現象をさす。
私は規格外に大きな人間の像に対しても似たような嫌悪感を感じ、それに勝る怖いもの見たさに突き動かされて、閉じかけていた目を再び開けてしまう。
仏像を見るときは、たいていそんな怖いもの見たさに衝き動かされているときである。
肩に迫るほどに長く垂れた耳たぶ、肘から印をむすぶ手までの、異様な長さ。賽銭箱の前に来て初めて目が合う、彼らの両眼、など。
東寺の埃っぽい匂いと、(今日あらためて気づいた)錆止めの匂いを嗅ぎながら、大日如来を眺めていると、この寺の創建当時から続く人間の営みにアクセスできるような気がしてくる。
夜明け前、下北沢のカラオケ屋を後にして、急で狭い階段を降りて駅の南口周辺でたむろしていた時、ふとこの場所を、恐竜がノシノシと、闊歩していた時代のことを考えて興奮した。
あの頃の世界と、目の前の嬌態が、物理的に地続きだなんて!
世田谷区で恐竜の化石は出土していない。
だが草木生い茂る未開の地だった時代を想像しても間違いではないだろう。
そう考えると優しい気持ちになる。
一分一秒を争い戦々恐々と生きる営みが途端に、児戯に見え、愛らしく思える。
私たちと恐竜を隔てる、時間とかいう言葉について考える。