ものに執着があまりない。
小さい頃のお道具ばこや地図帳を、変わらずに使っている人。
携帯電話の番号が、二十年弱変わらない友人は、尊敬してしまう。
何十年と生活を共に送ってきたものは一つもない。
強い愛着を抱いて、部屋の掃除の際にゴミ袋に放り込むことをためらう代物は、少ないように思える。
捨てたくないものがあるとすれば、替わりのものが用意できていないだけだろう。
だから私の父が、家族の家財道具を捨てることを固辞して、祖母の毛筆や私の勉強机に囲まれて生活を送っていることに共感を覚えない。
共感は覚えないけれど、父の姿勢は目に焼き付けられている。
実家の、使われなくなって久しい、離れの縁側を掃除し始めた。
長年積もった埃のカーペットの下で、アイロンも木の板もブックスタンドもすべてが等しく灰褐色に染められている。
普段は一瞥もくれずゴミ袋になげこむようなもの、大皿や額縁、戸板や電熱器のひとつひとつに、手がとまり、今まで一度として私を訪ねることのなかった想念が、つぎつぎと惹起される。
もしかしたら捨てられずにとっておいたものかもしれない。
家族の誰かが毎日口をつけた茶碗、なにかしかるべき処分の仕方があるのか…?
この建具は、考えようによってはなにかに使えるかもしれないぞ…。
何かの種だ。植えてみよう。
私のモノに対する価値観が、歴史の重さの前に全く歯が立たないでいる。
だが余計に、そうであるからこそ強く、これらを捨ててしまわなければならない。
モノ自体が、私の人格や生活を規定してくるような力強さを感じてしまったのだ。
父はもしかしたら、あまりに古くなったそれらの家財道具の声なき主張を承伏して、自らの生活に取り込んでいるのかもしれない。
ここにとどまりたい。モノの方が気持ちが強い時があるのかもしれない。
オカルト的だ。でもそう感じてしまったのだ。