傍らで伸びをする

はじめは一匹のキジトラ猫だった。
次に妻が来て、息子が生まれた。私を含めて三人と一匹家族である。
動物の集団形成はさまざまな形がある。生殖のときだけ他人と共に過ごすもの。たくさんの雄、雌が混在する集団。一夫多妻制。死ぬまで単体で過ごすもの。
他人とどのように過ごしていくのがベターであるかは私にはわからない。
そそくさと席を立たなければならない私は、いつまでもそこに腰かけていられる友人を羨ましく感じることもある。
しかし家に帰ると、出た時のままの乱れたシーツや飲みかけのコーヒーがコップに描く琥珀色のリングが、彼や彼女を出迎えることを私は知っている。
とちらがより素晴らしいかといった話ではない。
自分の体の中を蠢いている行き場のない、どうしようもない熱量を、私は他人と分かち合っていきたいと考えた結果、家族を持っただけであって、もしその熱を使い切って、なにかを作り上げたいと考えたのなら、また別の形を望んだのだろう。
あやふやである。断言できない。すべては早計である。まさにその通りだ。自信のないあやふやな物言いは、当然のことである。まだ何一つ、私の生命でさえ、はじまったばかりで終わってもいないのだから。
ただひとつわかったことがある。
自分以外の生命が、自分の傍らで目覚めて、伸びをするさまを見つめるのはすばらしい。