全てが時間芸術

お勝手から出入りして良いのは三河屋だけである。人の出入りは玄関からのみ許されている。

しかし人はあらゆる角度や導線から人を知る。同時代を生きた人にとって、ルソーは露出狂であり、名著を数多く残した偉人ではないかもしれない。汚名返上は非常に、骨の折れる作業である。

「アメリカに第二楽章はない」。これは、一度定着した印象を刷新する新たなキャリアは築けないものだ、という意味だったように記憶している。果たして本当だろうか?たぶん、反例はいくらでもある。

おそらくこの言葉は、大極的な、大多数の人に共通する認識に当てはまる言葉ではない。もっと小さな単位…個人個人の、それぞれに固有の出会い方により対象に抱いた印象、その不可逆性、操作しづらさ。ここには確かに、第二楽章の存在は少しも感じられない。

何を言っているのか。私にとってDave Grohl は、foo fighters のフロントマンであり、NIRVANA のドラムではない。彼がフロントマンとして世に再び現れたときの衝撃を、私は追体験もできず、ただ想像するしかないのだ。

悪いことではないが、知り得ない時間の経過があることは、時に寂しいものだと思う。