歌詞を書きたいという欲望が昔から強い。
特に誰かを対象にして伝えたい内容があるわけでも、詩を構成する突拍子もない方法論を編み出したわけでもない。
図書館にこもって窓の外を飛び交う歓声やサッカーボールをうらめしそうに一瞥しながら読書に耽っていたタイプの学生だったわけでもない。たぶん、違和感に立ち止まることがきっと多かっただけである。
欲望の赴くままにペンを走らせることは何度となくある。
いざ書いてみると、本当に、これが呆れるほどにそうだったのだが、自分の人生を切り貼りするなんてのは夢のまた夢で、感銘を受けた誰かの詩や歌詞を蒸し返して、レトリックになるよう注力しているだけの、ようは中身のない、うすっぺらな日本語の羅列にしかならなかった。驚き、そして悲しんだ。
どうすればいいのかはわかっていた。血肉になっている、無理なく口にできる言葉こそが私の織り成せる詩だった。そこまで気づいて、見渡して目に入るものはコンビニのカサカサ煩い白いビニール袋と食べかけのスナック菓子、コーラのペットボトルだった。
美辞麗句や、レトリカルな表現を多用して、それでいいじゃないか、と自分に言い聞かせるときもあったが、受け取り手である他人は、かならずどこかになにかしらのほころびを見出す。
煙草を吸う人は、「煙草吸って」なんて詩を書かない。
血肉を切って張って、歌詞を書いてみる。
そのためにまず、畑を耕す。
遠回り?いや、つながってると思う。