わたしの知るトマト

瞼を閉じていようが、どうしたって入り込んでくる光、それを見ながら髪を洗う。
近所の子供たちと畑の草抜きをした。どういう流れだったろうか。気づいたら草を抜いていたのである。
ニホンカナヘビと、ニホントカゲを探してるんです。
「うーん、この畑にヘビはいないよ。」
ヘビじゃない、カナヘビってトカゲだよ。見つけたら教えてください。おじさん鬼滅の刃読んでる?ジョジョは?おれはねえ、さいきんキングダム見てる。ネットフリックスでねえ、やってた。この草、トマト?
自分の口にした台詞だけを鍵括弧で囲うと、なんだかいやらしさを感じる。
けれど私は、むしろ、鍵括弧を取っ払ってしまいたい。
全てこの世の、私の世界に見えている他人が皆等しく、確信に満ちて生きているように見えるのは、錯覚なのだろうか。迷いすら、その道のりが決まっているように見えて。
トマトに似た草を、子供たちは大事そうにしていた。
葉の形をみれば、それがトマトでないことはわかっていたが、私はわかんないと、言葉を濁した。
私の知るトマトでないだけで、もしかしたら彼らはそこに、トマトに期待する何かを見出すかもしれないと思うと、私の知る知識など、一体何になるのだろうか。