はあ夕日きーれい

『Factotum』を書いた小説家のチャールズ・ブコウスキーは、晩年まで郵便配達員に従事していたそうである。
なぜかビートニクと一緒くたに紹介されるが、彼の作品は遥かに平和的で素朴、浅黒い肌をした祖父の優しくひび割れた分厚い皺を眺めているような気持ちになる。
彼も私と同じく、夕映えに足を止める日があっただろうか。

突然世界が美しく見えて、どうしようもなく恋い焦がれるような気持ちを抱くときがある。
ああ、この目の前に広がる美しい世界になりたいなあ、といった気持ち。うまく言えない。
サイドミラーに捉えられて、だんだん遠ざかっていく雨雲。
追いかける母と、母を振り返りながら逃げる息子。
欠伸で滲んだ双眸を一斉に睨んで十字に光る信号、外灯、洋犬の鳴き声。
雨が降ったわけでもないのに、鈍い光を返してくるマンホールの蓋。
流れ者の雲たちを統べるかのような、年老いた積乱雲。
自転車のギイという音、子供の笑い声。

私は忘れてしまう。
屋根はなんのために必要だったか?
壁は?部屋はなんのために?
人の持つすべての美しさが路上にはあふれていて、この一時、穏やかに往来を行き交うことができて、嬉しい。