なにを見つめているの

電話はどこにつながっているのだろうか。
ガラス張りのキャンパスで、買ってきたスナック菓子を皆でつつきながら何事かのもぐもぐを交わしている君の耳元へとベルを飛ばしているのだろうか。
そういえば大学生だったころはいつも時間がないと、焦燥感ばかり募らせてそのくせ、身体も指も一向に動かず、目の前の液晶画面や両耳のイヤホンに全身を預けているような無為な日々を送っていたような気がする。
あれから十年くらいたって、今の方が時間がない。
あんなに焦っていた頃を、学生時代の私を取り囲んでただよっていた時間を、繭にくるまれて眠っていた時間かのように感じている。

私のかけるこの電話はどこにつながっているのだろうか。
あらゆる場所につながっていればいい。
時を超えてお釈迦さまの声を私に伝えてくれてもいい。
そういえば昔友達が聞かせてくれた楽曲の歌い出しは “You are Buddha.” で、この一句の説得力がすさまじく、思わず体をのけぞらせて、「そうか私が!数千年も語り継がれる偉大な宗教家だったのか!」と感嘆してしまい、挙句にはありもしなかった紀元前の記憶までたたき起こされるのではないかという、余計な、すこぶる余計な危惧を抱いたのだった。

形だけまねてしまってもしょうがない。
私は毎晩キーボードになにごとかのカタカタを打ち込み、懺悔か排泄に近い動きをする。
畑に立つことは足を組んで禅に取り組むことに近い。
等身大パネルに描かれた見ず知らずの若者の生気を失った鳶色の瞳を見つめることは、私にとってお薬師さんを参拝することに近い、替えの効かない時間である。
私の欲しいものは私の生活の中に転がっている。
交差点?急行待ちの踏切?あなたの生活は知らないけれど、いたるところに転がっている。
私は両の掌を合わせて頭上の星を想うような気持ちで、両腕の湿疹をなでさする。
電話は、やはり、色めき立たずにあらゆる場所へつながっている。