そこにいるのは誰

人と夜通し何かを語り合うことがたまにある。
高校生の頃、友達の家の離れに集まって、アニメのDVDを肴に、ハロゲンヒーターの頼りない熱を囲みながら何事かを語り合った記憶がある。
(人は、当人からしてみても意外なものごとばかり覚えている生き物でしょう?)
好きなアニメには永遠に終わってほしくない。友人の談。
私は当時小説を貪り読んでいた影響か、終わらせ方の美しさについて関心があった。
終わりは忌避すべきものではなく、また表現の巧拙を問われるファクターのひとつ、という位置づけで捉えていた…のだろう。
どういった経緯かまるで思いだせない。しかし友人の主張を軽くあしらうことができず、少しなにごとかを考える契機になったような覚えがある。
小説は終わりを見せる、しかし登場人物たちはその、活字の中に展開された世界の中で生き続け、やがて死ぬ。
彼はその余生を、本編よりも長くなるであろう後日談を、あますところなく描き切ってほしかったのだろう。
これは単純に媒体の違いと捉えてよいものなのだろうか。

ここに一つの、泳いでは渡れぬ深い川に似た断絶がある。
曲がり角をまがったら、そこは違う町だと彼は言うのだ。
続いてほしいと願う気持ちはどこから生まれてくるのだろう。
続かなくてもいいという少し冷たい観察眼はどこに由来するのだろう。

なにかが続いていくことに、いったいなんの価値があるのだろう。
わらび餅食べたい、頬張りながら私は思う。
続けていくことこそが大事なんだ。
いつもより多く回る傘、その上の升。
喉が渇いて、次の拍子には手元にみずをたっぷりとたたえた水があり、私はその光景の絶えない事を、願っている?
続けていきたい気持ちの、彼我のいかんともしがたい温度の違いについて。