どこまでも広がってゆく

子供を幼稚園のバス発着場まで送った帰り、驟雨の前に車から出る気が起きず、しばしぼーっとしていた。
今、表に出れば、ズボンまでびしょぬれになったり、慌てて水たまりを踏み抜いて悲惨なことになるかもしれない。
雨脚が弱まるまで待ってみようか。
思い切って今、濡れることを覚悟して出てしまおうか。
立往生(立ってもいないし死んでもいないけど)している間に時間は立つ。一秒経つごとに、判断を保留していく。
窓の外に、なんらの兆候も見いだせなかった私はこのまま、バンのドアを開けることが永久にかなわないのではなかろうか。
とはいえ私は人間なのだから、腹が空けば解決しようとするだろうし、シートにもたれる身体が痛くなればまた、それを解決しようとするだろう。
しかしこれはあくまで、私が人間の身体付きをしているからであって、もし私が肩こりにも腰痛にも悩まされない身軽な存在で、天から伸びる管で絶えず栄養を補給できる、または海魚の鰓のように、空気中に無数に浮いている塵や芥を濾しとって栄養とできる生き物であったなら、私は永久にバンの中に缶詰めとなるのではないだろうか。
ましてやここに居て、判断を保留し続けるものが機械であったならば…。
私たちが移動していく理由、ギター6弦から下までかき鳴らす理由。
これは私たちが身体の要求を満たすために行っているだけで、もしこの身体が必要でなくなってくる日がきたとしたら、もう全く見向きもされなくなる物事があるのだろう。
雨が止む。私は腰をかばいつつ車を出る。