どうして貴方はあの時…

ノブを持ち上げ、熱い湯を浴びて数秒、風呂場の入り口で感じた視線は気のせいでなかった事に気づく。今年2度目のゴキブリとの邂逅。今回は丸腰も丸腰だった。

我々人類が一定の温度以上の湯を浴びてのたうち回るように、ゴキブリもやはり熱い湯には弱く(水圧に挫けただけだろうか?)、その隙を見て掌底にて葬る。はたと思う。こんな状況で冷静にゴキブリを対処できるなんて。すごい。昔の私に伝えてやりたい。

昔の私に〜、とは、使い古された表現で、しかもどの時点の私に伝えたいのかと問われれば、返事に困る。

11歳?あの時は、ボーイスカウトの運営による手違いであてがわれた馬小屋に蔓延っていたカマドウマを、夜通し一心不乱に叩き潰していた。ゴキブリの一匹くらい、わけもなく殺していただろう。

20歳?しかしあの頃の私は大人に対しての猜疑心が強く、私の報告を聞いても冷笑して、やがてゴキブリが殺せるようになったとしても、今その力がないのであれば意味がないなどと言って、突っぱねていたかもしれない。

果たして、私の過去に戻って個人的な金言を伝えたいといった願いは、叶ったとしても誰の心にもリーチできず虚しい風の一巻きに終わる。

人の発した言葉によって誰かの何かが変わる、なんて事は、実際に起こりうるけれども本来であればあってはならない、し、ましてや変えることを望むなんて、あまりに傲慢な態度ではなかろうか。

私のこの言葉は、じゃあどうして私の口を突いて出て来た、または指を動かして入力する結果となったのか?

きっと、他でもない私自身のためだろう。事の起こり。物語の始まり。あの時、どうして貴方はわたしに花をくれたの…?

『本気』という漫画で(本気と書いてマジ、の由来となった漫画である)、事あるごとに久美子さんは本気にそう尋ねる。行雲流水の本気が、あの漫画の中で唯一起こした、自分のためだけの行い。

たった一つ、たった一つだけの罪だ。