その譜面を見せて

ジャズと呼ばれる音楽が好きである。謙遜でなく、全く詳しくはないけれど。
「ジャズのインプロヴィゼーションは(やたら長ったらしい即興の事と思っている)メロディの剽窃の連続だ」といったことを誰かが言っていて、なるほどそうかと思って耳を傾けていても、実際に6,70年前のジャズプレイヤーが盗んでやろうと企てた(であろう)音楽を知らないがために、私には毎度、新鮮な旋律の連続に感じられる。
クレイジーキャッツがタモリを迎えて『12番街のラグ』を演奏しているときは、桜井センリが『ラプソディ イン ブルー』のフレーズを弾いており、これはさすがにわかる!と、嬉しくなった覚えと、小ばかにされたように思えて癪だった覚えとがある。
そもそもなんで、音階は12音にしましょう、なんて決めてしまったのだろう。
その足かせを嵌めたのはなんだろうか。
誰かの涙を誘った美しいメロディを明日も同じように、再び拵えて聞かせてあげたかったからだろうか。

以前、歌扇録という、長唄の楽譜を目にし、とても驚いた。
これを譜面と呼んでよいのだろうか。ほぼ、歌詞しか書いていない。
西洋音楽とは、音楽の全体像を捉えるときの角度が異なるのだろう。
思えば、家でお経をあげるときに読む経典も、なかなかにとんでもない代物で、言葉の横にド、とかレ、とか書いてあるものの、実際にその音階で歌い上げるわけではない。
たまに現れる折れ線は、中国の声調記号に似た役割を果たし、傍らにある言葉の伸ばし方を表している。が、これもかなり、個々人の裁量で好きに詠まれている気がする。
しかしどういうわけか大筋は、読経に参加している皆そろうわけで、経典の不足をなにが解決しているかというと、子供のころから嫌というほど聞かされて育っている点だろうか。

鍵盤の上を駆けまわる技能さえあれば、それ一つあるだけで、楽曲の再現性の質をある程度担保する五線譜と、限定された一部の人々の、膨大で一見無為な時間で培われた素養を前提とした、簡便で自由度の高い日本の楽譜。

音楽を絵にする方法は、色々あるんだなーと感じる。