力とは何だろうか。
寺院に関する書籍を紐解くと、たいてい一つや二つほど血なまぐさい話が出てくる。
僧兵なる武装集団が絶大な勢力を誇っていた頃のエピソードなんか、ヤクザの跡目争いに見まごうばかりである。
当時の寺を知るものが、今現在の寺社仏閣の風体を見たらどう思うのだろうか。
歌舞伎も、発祥の当時を知るものは今、伝統芸能なんて呼ばれて格式高いものとして扱われている現状を、どう思うのだろう。
人間動物園の展示物の「ひとつ」として、見世物になっていたジェロニモを、アパッチ族の先祖たちはどんな気持ちで眺めるのだろう。
これらは儒教みたいな立ち位置から述べた婉曲的な表現ではない。単純な疑問。
時間は、生れたものたちをどこか別の場所へと移していく。
岡山にある、とある遊具が人気の少し変わった遊園地も、本来は好き者の集まるマニアックな遊園地などでなく、他所の例にもれず、子供たちを楽しませるレジャー施設だったはずだ。
そういえば幼馴染に、純也という名前の男の子がいたな。
違和感だけが残っている。大人になっても「ジュンヤ」なんて可愛らしい名前のままだなんて、変なの。
たしかにそう思ったのだ。
産み落とされて私たちは、元居た場所からどんどんと移動していく。
ずるっと禿げてしまったり、ふとったり、どのタイミングで家を買うのがベストか、考えたりする。
私も周りの空気に釣られてちょこちょこ、席を変えたりそわそわと立ち上がってみたり、色々してはみたものの、どうも一歩も外に歩き出してはいないように思う。
窓外を眺める。あっちは楽しそうだなあ…。