犬という名前は、人間でない、「否(いな)」から来たと、それでイヌのつく植物は、付かないものより材としての質が劣っていたり、格下だとされたりする。
先人の禿げ頭に痰ツボをひっくり返してやりたい瞬間である。
車の中、交通整理をする人の焦げた肌を見かけて母は「大変な仕事だよ」と言う。
姿勢はなんだっていい。
昔、青物横丁だったかの喫茶店で、ひどく腰が曲がり、床ばかり見ている老婆が働いていた。
私はその角度に圧倒された。
きっと店主の母、もしくは先代からママとして看板を背負っていたのだろうけれど、もう家にいてもらった方がいいのではないかと勝手ながら考え込んでいた。
しかし、トレンチに乗ったコーヒーの一滴も零さずにテーブル席に運ぶには、彼女の姿勢は最適であり、厨房の跳ね上げ式のカウンターをそのまま潜り抜けるにも、適していた。
背筋をピンと張るだけが答えではない。
誰かの左手から竹刀ダコがまるで消えないように、昼夜問わず招かれる宴席で尽きることなく注がれるビールが、あなたの身体に大きな空洞をもたらすように。
「ちょっと難しいですね」の言葉に、努力を包んで隠してしまう窓口のきみ。
人間は奇形になっていく。
与えられた朝が口角を固くこわばらせたり、目を薄灰色に濁らせていくように、まず左右と帳尻を合わせようとする思考や突っついて活路を見出す精神も奇形の一種である。
どちらがどうだ、という話は、犬にイヌとつけた大馬鹿と同じである。
野放図に広がる混沌がある。私と誰かが進む一本道があって君が踏み外している、という話を終わらせたい。
もう一度いう。まず混沌があるんだ。
しかも次はない。永遠に混沌があるんだ。