郡上踊りを、こよなく愛している。3回しか参加していないけれど。
愛は数じゃない。
祭りは嫌いである。
年に一度、褌一丁でスルメを持たされ、日本酒をたらふく飲まされながら大寒の田舎道を練り歩く奇祭に出ていながら、天に吐く唾を一身に受けるようなことを言う。
蟻の一匹にでもなったような心地がするので、祭りは嫌いである。
最速と空席を求めて構内を歩く。
足も vehicle の一種のように感じられたとき、ゾッとして、いつか東京を離れようと思ったことを思いだす。
さらに矛盾を重ね合わせる。郡上の町で、私は蟻の一匹に進んで変態を遂げる。
狭い商店街を蠢く集合体の一部に溶け込んでいなくなっていく心地にうっとりする。
ミーハーなので、郡上踊りの楽曲中では『春駒』が好きだ。
そして、西洋音楽であるポップスのフォーマットに慣れ切った私の頭は、彼らの演奏をうまく理解し、処理することができない。
われこそはというバンドマンの方々には一度拝聴願う。
リンクは貼らない。無粋な感じがするので。
頭が追いついていないなかで、いつの間にか体は左右を見回して、必死に踊りをわがものにしようとする。
そして動き始める体。踊りが一周する。
しかし演奏の尺とはまるで噛み合わないため、曲が進んでいくごとに、手拍子を打つタイミングが楽曲のいたるところに移動する。
約束事の多い、五線譜を見て全体を俯瞰できる音世界では、私が今、どこにいるかを把握しつづけることが死活問題である。
しかし郡上踊りでは、歌い手と演奏家、汗だくの踊り手、暗い路地に引っ込んだ観客といった、いくつもの世界が並行して存在し、相互に干渉しているようで、袖すら触れ合わないでいる。
いったい誰がこの世界の仕組みを暴くことができる?
関心があるようでいて、惹かれ合っているように見えて、実は独り言をどれだけつっかえずに口にすることができるかに拘泥しているだけに見える、私たちの影法師を見る。
祭りは嫌いだ。
しかし、郡上踊りだけは再開を願ってやまない。