「望遠鏡おくち」
「見えない舟ワニ」。
子供からは突然、とんでもない組み合わせの言葉が飛び出てくる。
可愛さ余って、彼が好き勝手に拵えた、他意のない言葉たちをひとつひとつ記録している。
可愛さ余ってとは書いたがきっと本懐としては、自分のねばついた舌の上を、少しでも新鮮な言葉が躍るように、息子の言葉の持つ天真爛漫さに肖りたいといったところで、私利私欲が私のペンを走らせているだけであろう。どこまで走っても大人の殻の中に閉じこもって、永遠に続く回廊を走りながら遠くの山を憧れているだけだ。カフカみたいだな。
現実の話を推し進めていくのは、どうしてこうも眠気が伴ってくるのだろうか。
しんと静まり返って波一つ立たない川面に、石を落として波紋を見つめることが、決して嫌いなわけではない。破られてしまった静けさがどこに霧散してしまったのかが気になったりはするけれど。
現実世界にどのように羽を下ろすかということは、つまり個人の頭の中に起こっているさまざまな名状しがたい事象を、誰かと分かち合わなければならないということである。
すでに遠い昔に成立して、ホコリをかぶって久しい言葉たちをひっさげて、隣の誰かに唾をとばしながら懸命に、伝えようとする。
過去を走るような真似を続けていかねばならない気持ちが私を億劫にさせるのだろうか。
そんな時、お風呂場で水風船を乱雑にいじりながら息子が放つ、おもちゃをすべて詰め込んだような不可思議な言葉を聞くと、山の中腹で私の背中を追い抜いていくトンビの鳥影を見た時のような、うらやましい心地がするのである。