髭を剃ろう

顔を洗うために髭を剃る。
逆だろうか。

私は、冷たい水に顔をさらけ出すことを極端に嫌う。
冷たい飲み物も好まなければ、火を通していない食事はできうる限り避けている。
東洋医学的な見地に基づいて、体を冷やさないように気を付けているんだ…なんて言えれば、耳を傾けてくれている人も知ったふうな顔したり、感心しているというポーズをとる意味で大きくうなずいたりしてくれるかもしれない。
だけど別にそういうわけではない。年齢を重ねて体の欲するものが自然とそうなった、というだけにすぎない。
当然の帰結として、ぬるま湯か熱いお湯で顔を洗いたいという願いが、常にある。
しかし顔を洗うためだけに給湯機に電源を入れ、火をおこさせるのはとても勿体ない気がする。水を温めているその間、渦を描いて無為に流れ去ってしまう冷たい水に対しても、有効な使い道が見いだせていない。
そんなわけで、私の願いをたちどころに叶える方舟は髭である。髭剃りと、洗顔。二つも目的があるのなら、お湯を沸かすこともいとわない。
毎日生えるから、毎日剃らなきゃ、見てくれが悪い。
かくいうわけで、私は毎日顔が洗えている。

私の敬愛する漫画家の、学生時代の先生が、卒業式に生徒に向けて放った言葉は「髭は毎日剃っておけ」だったそうである。
私に向けられたわけではない、卒業式にはあまりそぐわないように聞こえる、知らない人の言葉が、私の中で脈打ち、私は髭を剃ることができている。
明日も髭を剃ろう、温かい水で顔を洗うために。