どれくらいかぶりに日記を書きます。
誰かに話を聞いてもらえる機会が、ここ最近はうんと増えたような気がしており、ありがたい限りです。ありがとう。
話を聞いてもらえるので、ある一定の鬱屈とした感情に関してはその時点で霧散してしまうためか、なかなか筆…筆というかキーボードを手に日記を書くという行為に気乗りがしなかった。別に日記は感傷的な気持ちやルサンチマンのゴミだめでもないのに。
「独り身である自由を謳歌して、生き方は人それぞれだよ、という言葉を免罪符に生きていくことが、結果的に似たり寄ったりのオジサン・オバサンの再生産にしかならない」というツイート(ポスト?)を見かけて、まあ確かに該当する人は少なからずいるんだろうな、と確信に近い同意を覚えたわけだけれど、一体どこでその同意を拵えたのか、自分の人生を振り返ってみても、具体的に誰をみてそう思ったのかは分からない。
でも転機となった出来事は覚えている。
20代の後半に差し掛かった時、自分という個人をこれまでのキャッシュフローの総和と定義した場合に、もっともお金を落としている場所はコンビニエンスストアとアマゾンだと知った。俺はコンビニエンスストアとアマゾンで構成されて、「細野晴臣を敬愛している」とかほざいている哺乳類であるという事実に愕然としたのだ。ちなみに細野さんの創作物や演し物には1万円ほどしかお金を落としていない。
投じた金銭の多寡だけで物事の価値を測定することは偏狂な観点であり、さもしい事かもしれない。だが、たかだか数万円しかお金を落とさない私という存在は、私の一方的な想いや憧れのようなものは、作り手からすれば羽毛よりも軽い存在だ。
当時のお金の使い方では、私の心は誰からも顧みられることのない存在に成り下がる事に、耐えられなくなったのだ。
心が誰からも顧みられなくなった人々の末路の中で、最悪なものって、たぶん「無敵の人」だよね。わかんないけど。
NPCみたいに扱われても平気な人もいるのかもしれないけど、内省するに、誰かの関心を惹く努力を放棄した私の刻むステップは、彼らのそれと似通ってくるのだろう、という恐怖がついて離れない。
離れない、し、似たような心をもち、次の一歩で綱を踏み外してしまいそうな人もたくさんいるのだろう、という世界観で生きている。
だから、さ、今夜からはちゃんと殴り合おうじゃないか。
「かかってこいや」なんて便所に書いてあった頃が懐かしいねえ。