ちょっと忙しくなるとすぐルーティンが崩れてしまいまして、日記が滞りますねえ。
本当の優先順位は逆で、ルーティンワークを最優先すべきで、そのために仕事を毎日うっすら分散させるべきなんでしょう。
昔一緒に暮らしていた猫が、ある日、たまたま美味しいなまり節を私が与えたり、たまたまたくさん遊んだことに気をよくすると、あくる日も同様に同じ営みが待っていると期待して私の元へ擦り寄ってきたものだけれど、私にとってそれらは、本当に気まぐれに用意したご飯であったり遊びであったりしたわけで、毎度、彼(オス猫)の期待を裏切って憚らなかったのだが、私は本当なら、新しい営みの一つとして、猫との戯れを生活に組み込むべきだったのだろうか。
「アイツはコーヒーに向き合ってない」といった言葉を、師匠は時折口にしており、私は向き合うってなんだろう?という疑問に、当時実感を伴った答えが見えておらず、はぁ、とかそうですか、といった生返事しか返すことができなかった。
じゃあ今ならわかんのか?と言われると、どうなのでしょう、まだなんとも言えませんけども、少なくとも何かの作業に従事している際には、「魔が差す」という場面に何度も何度も何度も…遭遇するわけで、彼ら彼女ら(悪魔の性別が分からない)に立ち向かってやっつけるために必要なのは、理想とか情熱とかなのかもしれませんけど、それらの抽象的な概念は、立ち消えになった時、魔に対して向き合う動機も一緒に溶かしてしまう恐ろしい劇薬なので、シンプルに体力。体力が全部。これがないと負け越しちまいますね。
昔は皇居ランしてる人のことを、なにそれ?意識たかい系の人ってよくわかんねー!とか、電車乗り継いだ先でランニング?すんの?とか思ってたわけですけど、当時は本当に、まだ自分の人生が始まっていなかったんだなー、などと振り返っております。恥ずかしいよ。
「手足は伸びきっていても、相手は子供なんですからね」とは『めぞん一刻』の隠れた名言(わたしが勝手にそう思っている)。
過去を振り返るに、噴飯ものの営みばかり繰り返している割に、私は自分という生き物が、聡明で冷静な判断が下せる存在だという認識を「疑った事がない」。
年齢によって、表出されるアラの質が異なるだけで、人間は生まれてからこのかた、ずっと認知症と呼ばれる類の病に冒されているのかもしれない。
黒歴史って14歳で終わりじゃないのよね。ずっと真っ黒。