人間に話しかけると微笑みが返ってきたり、会話の返答となる言葉が返ってきたりする。
人間を見つめると、見つめられたことによる緊張に似た面持ちが、彼または彼女の肌に浮かぶ。
それらのいずれも望んでいない時、つまり、話しかけられていることはわかっていても特段返事を寄越さない人や、見つめられていることをわかった上で、なんの変化もない人と夜、どこかへ出かけて、1人でもできるような遊びに付き合ってもらって、タバコを何本か吸って、自販機で帰り道に飲む缶コーヒーを買って、車に乗り込んでお互いの家で別れる、といった遊びを求めている時がある。
家族に関する打ち明け話や、仕事に取り組んでいる姿勢の話、決意表明、実現可能性はあまりに低いけれどもいつか叶えたい夢、そういったものは全部ゴミだ。いや、ゴミじゃないけれど、少なくとも彼または彼女といる間、それらはゴミと化す。
ものすごく閉鎖的で独善的、反社会的でいて、そして非言語的な関わり合い。ちょうど、私たちが猫や犬に話しかけて返答を期待していないことに似ている。
その関わり合いに機動性を持たせて、「家でやれよ」とやっかまれながらも、夜を経巡って1人と1人で遊ぶ。
Ceroの”orphans”という歌に歌われた男女が、ちょうどそういった関係性だったように思う。
皆だれしもが、言葉などという、互いの好き勝手な定義とめちゃくちゃな文法で展開される未熟なツールで会話をする事に倦んでいて、小さなすれ違いが心に波風を立てようと、それを埋葬して微笑みを返すことに辟易としていて、自分とまったく同じペルソナが肉を帯びてもう一人の個人として生活を共にしてくれることを理想としていて、しかしそれはあまりに非現実的であるから、一生懸命語彙を尽くして人に好かれよう、心通い合う友を探そうとしていて、まだ人々が言葉を操ってコミュニケーションを取っているのは、皆がその、非言語的な友をさがす道のりの途上だからなんだろうと思っていたんですけど、違うんですか。