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腰痛がぶり返してくる。こまったな。
全然関係ないけど、関西のイントネーションで発せられる「こまったな」はかわいらしい。

YouTuberなる職業を知った当初は、河原乞食だなんだと、軽んじていたような気がするけれど、今では寝る前のゲーム実況チャンネルを眺める時間が楽しみのひとつである。彼らと私は歳のころは近いのだろうか。ものの名前を知らず、読み間違えたり、読めていなかったり、人前で__液晶画面越しではあるが__話をする職業の人間としてはあってはならないようなミスがある。最近ではあまり気にならなくなってきた。

再生回数を見てたまげる。何百万回と再生されている。たしか、動画のサムネイルを一度クリックしてすぐページを閉じたりしても、再生回数には反映されないから、サクラによる再生回数稼ぎ(ならびに広告収入を得るための自作自演行為)は通用しなくなっているはず。
ということは、同じ動画を閲覧した人が、うーんとても沢山…たくさんいるわけで、エンタメの訴求力の凄さを思い知る。

翻って、私の好きなミュージシャン達の、YouTube動画の再生回数は、おおよそ、その200分の1程度である。訴求という意味ではエンタメには敵わない。
では彼らミュージシャンは、液晶画面の向こう側の大衆に迎合したエンタメ作家ではなく、アーティストである、芸術家である、再生回数は作品の質と無関係である、かといえば、最近よく分からなくなってきている。
例えば、何も考えずに先達の真似をして左翼しぐさを踏襲しているだけの人もいるだろうし(それってむしろ保守的だよね)、ギターやピアノがあって3〜4分の楽曲を歌いながら弾いたりする営みが今までにない全く新しいものかといえば、そんなわけねーじゃん。もちろん、新しいものが無分別に芸術である、などとあさはかな事は言わない。だけど、広く人口に膾炙した作品には、新しさ…エポックメイキングな側面、と言うものが備わっている。
音楽には、音楽家には、一握りの席についた人間を除いて、メディアとしての力はもう備わっていない。生来の疑問や生活苦や政治的な訴えを広く世の中に問うて行きたい人が手に取るものはギターではない。じゃあ何か。それはわからない、けれどギターではない。もうギターではない。

自分の話を聞いてもらえるようになるまでは、じっと耐え忍ぶ類の話題は存在する。もしあなたのやりたいことが音楽でなく政治なのだとしたら…政治的な主張を持ちこそすれ、それを伝え広める手段に政治的センスのかけらも無い人は口を閉ざした方が良い。力が足りなさすぎるんだ。