今日も一日中運転。
手は塞がっているが、頭は余裕がある時に思いつく物事は、熟考…と呼ぶにはあまりに荒削りなシロモノだが、快活に音を立てて回転するエンジンと車窓の流れに勢いを得て、事を進めておきたい時もある。急ぎメールを打ったりする(もちろん停車中である)。
些細な出来事に苛立ってしまうときがある。
一つの物事に一定の熱量で反応を返すことがまるでできない(たとえば子供が手を洗わない時に必ず注意できる、又は同じ内容の注意をできる自信はない)。家族はさぞ迷惑だろう。人間の形をした、一つの大きな疑問、または災厄だと思われているかもしれない。
しかし、生まれてこの方、例えば10000人と接したら、10000通りの受け答えをして生きてきた。顔色を窺わないで(あるいは、顔色を全く窺わないという選択で以って)人と会話した経験はおそらくない。だから、一つの変数を入力されたときに、いつも同じ反応を返す人の事がよく分からない。100ccがいつでも100gの水のようでは、私はいられない。
いやしかし…話は全然違ってきてしまうのだが、重さや体積の基準となっている物質は水…この星に最も多く存在する液体であろうことは想像に難くない。しかし液中の礫や砂、その他微細な鉱物や微生物の死骸などを完全に取り除き、純粋にH2Oのみで構成された液体など、この世に存在するのか…?純粋な直線が存在しないように、初めから存在があやふやなものが、この世のとある物事についての基準になっているのではなかろうか。
そう考えてググってみると、『最大密度の蒸留水1ミリリットルあたりの質量』という定義があるようである。最果タヒみたいだな。
蒸留水である、という点で不純物うんぬんの話はクリアしている、とみなすべきなのだろう。狐に化かされている気分は拭えないものの。
最大密度の蒸留水を用意できたとして、今度はその体積を正確に測ることのできる器具に対しての疑いが生まれてしまい、単位の決定の歴史について調べてみると、面白い発見があるのかもしれない。時間がいくらあっても足りない人間の発想である。