彼は年間数十件もの企業買収案件をまとめ上げる一流のネゴシエーターだが、名前がまだなかった。
職場の連中や家族、客先ではそれぞれに便宜を図ってくれ、
仮の名で、
呼ばれているようだが、記憶に取りこぼしがあるようで、彼は自身がそれぞれの集団のうちで、なんと呼ばれているのか、とんと思い出せず、さりとて誰に問い直すことも、しなかったいやできなかった。
彼は彼の妻の(彼女には名前があった!)腹を打つ音に応えるようにして耳を近づけながら、名前がない人間なんて俺と胎児ぐらいだな、とひとりごちる。妻は少し笑って、へその下あたりを両手でさすった。