ワイパーの弱い動きを見て、猫がその短くカギ状に曲がった尻尾を時折動かす様を思い出している。
妻は横になっていると、足の指を曲げ伸ばしたりする。またもや私は、猫の尻尾の動きを思い出す。
じっとしている事が苦ではない生き物たちは、身の内側に溜まった澱みのようなものを発散させるかのようにして、時折体のどこかを動かしているように、わたしには見える。
彼らはなにかを知っている。止まることを知らず、ジタバタと常に大仰な動きをする私には、そう言った傾向はない、ように思う。
人の癖を見るのは、面白い。言葉にとらわれて、さも大層な存在に見える、または見せる人間さまの、動物としての動きが垣間見える。特にキッチンでは(現場仕事もそうなのかもしれない)、相手との距離感を取りつつ仕事をこなそうとする人は、そうでない人より余計に苦労する。
一昨年の暮れ、中国に旅行で行った。コロナなんて騒ぎ立てられる前だが、今にして思うと、とても際どいタイミングだったろう。
これは、非常に言葉で表すのが難しいが、彼らの運転に関する共同意識…路上で車を運転する際、意識の一角を他のドライバーと共有しているかのような道路上での全く滞りのない振る舞いに、いたく感動した。日本の道路では、こういう一体感を感じたことはない。近い感覚は、郡上踊りだろうか。
中国人のシェフは、突然横に現れたお客さんから捲し立てられるように話しかけられても、何も動じず、傍に立って応対した。お客さんも、近寄られた事を避けるでもなく、受け入れて話を聞いていた。
景色の一部と化すことはとても難しい。これから沢山のものを得るために、私はそれ以上に多くのものを捨てる必要を感じる。