昼下がり、仕事から戻った私に妻がそわそわとしながら言う。小山田氏のニュースが今日やっと、彼女の耳に届いたらしい。
元オリ少女である妻は、彼女らの多数の例に漏れず、青春時代を渋谷系に捧げた。一言一言、組み立てた言葉を思い出してなぞるようにして氏を庇う。
私はと言えば、氏の出会いは件の記事であり、彼の音楽は耳にしたくないものだと思っていたが、salyu × salyu だったか、YMOのライブだったかで初めて耳にして、無視できない創作があるものだと感嘆した覚えがある。
しかし、入り口はあのカミングアウトだ。偉ぶるわけでもなんでもなく、私の世界に於いて彼は、咎人の烙印つきで存在を許されているのだ。彼は罪人だ。
看過できない言葉で彼女は彼を庇う。私はやんわりと、明確に否定する。かすかに眉をひそめ、私の言葉に頷きつつも、しかし二の句を告げる。彼女は私に話すことで、何かと闘っている。思い入れ。ふとそんな言葉を思い出す。
青春時代の思い出。音楽ってのはどうしてこうも、情感にばかり訴えるのか。聴いてたら例えば確定申告の手際が良くなる…なんて効能は一つもない(ように思える)。
青春時代の思い出。それは、唾棄、なんて刺々しくなくても、あっさりと捨てられる物じゃないのか。
冷たい人だと思われることなんか、屁でもない。余計なものにも優劣があるが、その最も余計なものだよ。高らかに言う。それは余計なものだよ。それは余計なものだよ。
大衆に阿っているくせに、さもなにかを創造したようなやつらの口ぶりに踊らされて、浅薄な娯楽に身をやつした人を私は悲しく思うが憎まない。
河原乞食たちすべての、その舌を切り落とす。私はあなたがたの実生活が見たい、とか言いながら鋏をあてがう。