第三回 ムテの音楽鑑賞会

三十余年の人生の内で、7回ほど、家探しの経験がある(7が漢数字でないのは、終の棲家を見つけるまでにはまだかかりそうだ、という予想が込められている)。


結果、コード…記号を素早いスピードで処理してそろばんを弾いて(山手線内の駅から徒歩10分で南向き、バストイレは別…)、ここならいいでしょうと、決断する力だけがいたずらについてしまったわけだけれど、2年契約だとしたら700日くらい、起き伏しするはずの仮の我が家なのに、現地の滞在時間はものの30分程。
よく考えたらおかしいと思ったのは、学生時代。3度目の引っ越しを終えた後。
エアコンのない木造のアパートで、裸電球のまぶしさや西日しか射し込まない部屋がどんなものか、春先の雨の日にそこを訪れた私には想像ができなかった。


本気で住む場所を考えるなら、一日中その物件で過ごして、窓からの日差しの覗き方、隣近所の生活音、通りを抜ける車の頻度、一番近いスーパーや商店街、その品揃え、自宅と一体型の歯医者の数、喫茶店の有無とその趣向、古本屋の有無、煙草屋のラインナップ、駅からの一番気持ちの良い道順、そういったものにも耳をすまし目をこらし、足を動かすべきであって、それらの情報を知らないで家を選ぶなんてことが、そもそもの初めから不自然だったのだ。
仲介業者も、固いこと言わないでお客さんに一日部屋を貸し付けて、何もないリビングにごろんと横になってあれやこれや考えさせてほしい。しかしそれが難しい。みんな時間がない。


私はなぜ引っ越すのだろう。そして人はなぜ、そこに留まるのだろう。

仕切りがあるベンチについて、嘆かれている。特定の人を排除するデザインの公共物は攻撃的で不寛容な社会を形成する、うんぬん。
量を見誤って、酒に足腰を砕かれた私はごく稀に路上で朝を迎えることがある。その気になれば、駐車場のアスファルトの上でも十分にベッドになりうる。段ボールは温もりを保つ。私はそれを知っている。
町の一角に、何をするでもなく佇んでみるという行為を、人々や町の醸造する雰囲気が許容していないように感じることはある。立ち止まっていると人にぶつかられる。怪訝そうな目線を向けられる。そして私自身も、なにもせず佇んでいる人を見かけるとぎょっとしたりする。
あれは私が驚いているのか、私に蔓延る社会通念が驚いているだけなのか?

『第三回 ムテの音楽鑑賞会』。私たちの移動は続いていく。

私たちは家の夕暮れを知っている。会社の、最寄駅の、故郷や転勤先の、景勝地の夕暮れを知っている。

だがその道程で窓外を過ぎて行く、あの給水塔、あのプール、庇から伸びるロープにやたらと白い肌着を吊るしているあの家…

それらの場所に注ぐ夕日が、どんな色を見せ、どんな影を落とすのか。私たちはまだ知らない。

『第三回 ムテの音楽鑑賞会』。私の移動はいつか終わる。

「自由なんて必要じゃない」と彼女が歌い、私は私の地獄を選びとる。