それは誰の手?

TSUTAYAがレンタルを終了するらしい。いつ?再来年。わお。

すごく世話になった。恥ずかしげもなく言ってのけるが、セレンディピティの宝庫だった。コメディでないムーミンを、頭から見ようと思ったきっかけは、息子とトーマスのDVDを借りに行った時に、背表紙が目に飛び込んできたからだ。

もちろん足りないものもいっぱいあった(ラッセ・ハルストレム監督の、ハリウッド進出前の映画が観たいんですけど…ないですよね、ありがとう、バーイ)。

小さい頃は武者ガンダムをやたら借りてもらっていた駅前のレンタルビデオ屋、バイトの終わりに、『妄想代理人』を借りて帰った、倉庫型のレンタルビデオ屋。全部潰れて、TSUTAYAもレンタルを終える。ふと、インスタントカメラのことを思い出す。

「もう撮り切って現像しちゃいたいから」とは、誰かと一緒に写真に映るための口実だった。理由がないと、人と関われない。内気な少年の口実はデジタルカメラが駆逐した。

DVDを借りて一緒に観よう、という誘いも、今度は無くなろうとしている。ネトフリで観ればいいじゃん。声が聞こえる。私は顔を顰めて言う。それじゃあ違うんだよお。

私たちはなにかを期待して家を出る。街へ向かう。目的はいつもスマートでシンプルとは限らない。

歩いているうちに見かけた感じの良い喫茶店でコーヒーを飲んでいるうちに、待ち合わせ時間を過ぎてしまったり、装丁が目を惹いて、買うつもりのなかった本に手を伸ばす、なんてトラブルも、街は用意してくれている。

しかし、目的までの最短でストレスフリーな距離を目指す人にとって、街は要らない。ワイヤレスイヤホンで音楽やオーディオブックを聴きながら仕事をしていたら夕食と新しいパジャマが届き、夜は目星をつけていた映画をストリーミングして観る。うーん、スマートだ。家以外いらない。

しかし、全ての人々が、決断の連続に勝利していけるだけの力が備わっているわけではない。

怒りの由来、悲しみの由来を推測・言語化し、その解決策を講じる(お腹いっぱいになったら、すっきりした!なんてことは、たくさんある)ためには、あらゆる事例を判断抜きに採集して、自らのストックとしていく作業が必要だ。

何をすれば、幸福へ近づくのか、わからずにぼんやりと立ち尽くすかつての私を思い出し、私の背中に控えている息子に待ち受けている世界に思いを馳せる。

愛すべき、余計なものの蔓延る世界と息子は出会えるだろうか。その道筋を提示できるだろうか。

あらゆる口実を駆逐したデバイスを片手に(あるいは、何も持たず)ひとりポツンと佇む息子の姿なんて、パパには刺激が強すぎるからなあ。