会話をしていると、その言語が組み立てた構造が見える時がある。
認識できたときに私の身に訪れるものは快感である。
同時に、宙に浮いたわけでもないのに高台から遠景を見下ろしているときのような、優越感や、がっかりしたような気持ちともとれる、寂しさの萌芽のようなものも訪れる。
私は今住んでいる家を出るかもしれない、出て、春には桜が綺麗なシケインのある、あの町へ家族を連れていくのかもしれない。行ってみたいお店よりも先に見つけたものは、決して上りたくない坂道だった。
愛知に戻ってきて3年が経とうとしている。あの坂道が何処につながっているのかは、おおかた見当がつく。きっと何度も、足を運ばねばならない機会が私に訪れるだろう。
だがしかし、私はあの坂道を決して上らない。構造がわかると、がっかりしてしまう事に、少し臆病になっているのかもしれない。
私は踵を返す。でも次の日には平気な顔をして、坂を上る。そしてあくる日には、あの坂には俺は絶対に上らないんだ、あの坂は見ているのが良いんだ、上るなんて無粋だろ?なんて、これまた平気な顔をして口走るのだ。ろう。
建造物でない、最も下劣な存在に甘んじる美しさみたいなものがあればいいのだが、なくてもいい。けれど、平気な顔が誰かを傷つけやしないかと、つねに怯えている生き物であるかもしれない。