足を伸ばして、長野まで。一日一組だけ泊まることのできる旅館に家族で宿泊した。
恐らく江戸時代に建てられた蚕農家のお屋敷で、蔵が客室だった。中庭にある赤松の老木がドラマチックな角度で空を目指して屹立していた。中央はカルデラのようなお堀があり、後ほど店主が構想して掘ったものだと伺い、二度たまげる。
土間の独特な風合いは、モルタルにできる無数の小さな孔にニスのようなものを塗り込み、家の古さとの調和を表現したと聞く。事例のないものに明確なイメージを持って、実現させる才人をこうして目の当たりにして、とてつもない刺激を受ける。油絵を食い入るように見つめる人々の背中をふっと思い出し、発想が生まれ得ないのなら貪欲に見つめて汲み取って、己の血肉にしてしまう姿勢を、わたしは持たねばなるまい。
ところどころのアンバランス、技術の光る中に少しだけ覗く人の気配、橋のない道をつなぐ一枚のお盆やその他数多くのアイデア。ああ、ボウルでかけ湯したの初めて。でも全然不快じゃない。
好きである事によって目を曇らされてるわけでなく、全てを見つめようと瞬きを禁じる。その心の働きを人にもたらす事を私もうまくできたらいい。
最終最後は、手負の人を勇気を持って慰めることのできる人が報われればそれが良いし、私自身はそういう人になろうとはもう全く思わないけれど、生きることに不自由が無くなる事と、生きていこうと決意することは時折相反する。
ゆらりとした姿勢で何かに傾倒する私を誰かがふーんと心の片隅にとどめて、何かの折に引っ張り出して慰めや励みにしてもらえたらこの上ない幸せである。