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そういえば高校生の頃などは、髪が伸びることだけが楽しみだったような気がする。
好きな髪型に近づくからね。
髪が伸びるシャンプーってあったよね。最近見ないな…。
「人が自分の髪質に満足することは、一生ないよ」と当時通っていた美容院の人に言われ、細くてすぐ寝てしまう柔らかい髪質や、もみあげの生え際が短い事による髪型の制約などが当時はとても嫌だった。
嫌だった…?つまり、自分の手元にないものばかりに魅力を感じていた、他人になりたかった、ということだろうか。青いねえ。蒙古斑も抜けきらんような青さだ。

自らの魂が四六時中付き纏っている自分の身体に「なりたい」なんていう感情は抱きようがないので、憧れたり、近づきたい、同化したいという願望の対象はいつだって、他者だったり絵画だったり偶像だったりするわけですけど、仮に他者になりたいという願望そのものが非常に危険で避けるべきものだとするならば、1番悪影響を及ぼすのが写真ですよね。
撮る側も被写体をいい写真に収めようとするし、無味無臭なのがやばい。
実態として現前する他者っていうのも、なかなかに願望を惹起させる存在ではあるとは思うんですけど、メイクが乗らなくて顔が違う日、疲れていて体臭がある日、熱があって近くにいるだけで少し蒸し暑い日、しゃべってみると声が変で親しみやすさ、または嫌悪感を覚える日、色々あって憧れの対象にしづらい。
なにより身近なところで生きている他人を遠ざけたり憧れたりすると、生きてゆくのが結構しんどそうですよね。

かといって、憧れの対象として、無味無臭で肉体を持たない存在を選択してしまうと、それは現実世界に対する嫌悪感を生み出しそう。
目ヤニ張り付いたまま人前に出る人、大声で怒鳴り、くさい息れのおじさん、上下が異なるパターンのチェック柄で出歩く人、腰の曲がりに曲がったおばあさん、ありとあらゆる人が存在していて、本来はそこが現実。
渚でぱちゃぱちゃ遊んでるだけのくせして、海の向こうで泳ぐ巨大な鯨とか不可思議な深海魚の存在に思いを馳せたところで、きっと目測を誤ってしまう。
だのに世界に、こんなにも写真が溢れかえってしまうと、自分の遊んでいる水辺のすぐそばに、素晴らしい景色が広がっているかのように錯覚してしまう。しかしそれらは加工と編集が前提の偽物であって、憧れるべき存在ではない。
必要なのは、眼前を素晴らしい景色で埋め尽くすことというより、幼稚で短絡した憧れを、エアクッションのプチプチを潰すように一つずつ、しぼませて現実になじませていくことなのではなかろうか!

と思い、最近はずっとプチプチやっているわけですけど、そうすると次はどこにも足が進まない。または、経済活動の発展を標榜して拵えた「憧れのパチモン」を動機にして人を訪ねる真似しかできない。
うーん、我ながら嫌なやつだ。