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犬や猫、魚。
飼い主が呼べばやってくる。かわいい。各々の思う最速でやってくる。
例えば飼い主が殺人を犯した人であったり、職場で暴力を振るう人間であったとしても、その振る舞いが犬猫たちの眼前で展開されない限り、彼ら動物たちの振る舞いはなんら変わりないだろう。
飼い主が毎日餌を与えてくれる事と、他者に危害を加えることとがリンクしてこないからだと思う。咎なんてややこしい概念のない世界で、爛々と目を輝かせながら、鳴いて懇願したり、嬉ションを撒き散らしながら飼い主にまとわりつく。

人間はこうはいかない。いや、こうはいかなくなる。といった方が正しいか。勉強しちゃいますからね。
勉強して、たとえば物体AとAじゃないものとの違いを勉強する、分かる、分けられるようになると、2つの物体を比べることができるようになるよね。あれ、順番が逆かな…まあいいか。
比較・検討を繰り返していくことでモアベターなもの、当人にとってベストなものを探し続ける事、それ自体はきっと健全な営みで、トライ&エラーとか言ってみたり、仕組み化と言ってみたりして人々は自他を奮い立たせて比較の海の中を遠泳していく。

この一連の営み自体は、本当に健全だと思います。批判の余地なんか少しもない。
苦手な上司がいる、先輩がいるんだったら、例えば世代ごとの傾向を踏まえて好まれる返答をしたり、ビタッと張り付いて媚を売ったり、すっぱり諦めて異動を願いでたり、仕事量で黙らせたり、ベストな距離感を見つけないと、潰されちゃうし、枚挙に近い作業にいつもストレスを感じているのなら、適したガジェットを購入したり、心地よい作業空間を作ることに腐心しないと、必ずしも感じる必要のないストレスに身を蝕まれてしまう。
だから比較・検討を繰り返していくことはとてつもなく素晴らしいことだと思うんだ、が。

「それ以外の比較対象を知らない」事に起因する情熱や愛憎は、その道の先には決して存在しない。
犬猫が飼い主に向ける、怯えの少しもない、全てを委ねてしまったかのような、崇拝にも近い眼差しは、決してあなたの瞳には宿らない。二度と宿らない。
ここから先は、知略と暴力に塗れた世界か、敗残者がニタニタ不潔な嘘をついている世界かの、二つしかないのだろうか。多分そうなんだろうな。

『あの日に帰りたい』という言葉が骨身にしみる年頃ですね。