個人的に、アプリオリに近いというか、疑いの余地がなく善とするものの中で、「親族は多い方がいい」というのがあります。
親族でなくてもいいんですけどね。
一つの場所、一つの集団の中に、一つの目的を共有して出入りする人間は多い方が、少ないより善である、と考えてるわけです。
理由は、1杯500円くらいのコーヒーを売って生計を立てていると、数人のファンが一日に数回訪ねてくれるよりも、数百人のうっすら好ましく思ってくれてる人が一回来てくれる方が高確率で生き残れる気がしているからです。
単純に人が沢山いると安心する、とか嬉しい、という理由もあります。
男同士って、20代を境に、めっきりお互いの体に触れることは無くなります。あくまでも主観ですが。
身体が置いてかれてる。そんなふうによく感じます。
ハイティーンの頃はどこの店で服買ってる、とか、今日履いてるのは限定のスニーカーだよとか、なんか色々同性で話し合ってたもんですが、君の服装はB系であるとか、ギャル男系のファッションであるとか、古着系だアメカジだとか、相対化することが多くなり、尊重の顔を被った敬遠によってうっすらと互いに境界線を引いて、そこから出ないようにしているうちに、皆結婚して子をもうけて育てる年になり、皆の生活が全く一様ではなくなり、身体に気遣う機会を互いに啓発しあう関係じゃ無くなってる気がします。
薄くなった額を笑ったりって、あんまりできないし。
まあまあ寂しい。
友達同士の狭い関係でもいいから、お揃いのものを身につけたり、似たような系統のファッションに身を包んだり、無理して高い時計買ってみたり。
そういう営みって、本当に「多様性」の大義の元に、死滅させられた感じがして寂しいのです。
だからなんとなく、この前先輩からエアマックスやダナーのメイドインUSAのブーツとか一緒に履こうぜ、バイクまた乗ろうぜ、と声をかけてもらえて、そんな金いきなり工面できないよと思いつつも、声をかけてくれた気持ちに応えたくて、お金稼ごうなどと、私は思うわけです。
「多様性」の名の元に死滅させられ、「バブル期の負の遺産」なんて言われる営みなのかもしれないけど、下の世代に繋いでいこうと考える人、応えて受け継いでいこうとする人は、時代と関係なく存在するものです。
もっともっと人に感謝できる強さが欲しくなる。きっとその強さは、疑いなく善と見做せるものだろう。