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万葉集を専門とする学者さんが「万葉集以降の歌集にちなんだ場所を旅行するのは意味がないと考えている。現実の出来事との関連性が薄い。歌としての美しさが優先されている。
例えば歌枕として頻出の『吉野』だって、歌に詠まれたから現実世界で後追いとして花が植えられてるだけだ」といった話をしていて、なんだか頭をガツンと叩かれたような心地がした。

幼馴染3人が「甲子園に連れて行く」という約束を果たしてくれたと涙する女子の応援団長、というニュースを見た。
世間で喧しく叫ばれている観点とは少しズレるかもしれないんだけど、『タッチ』みたいだなと思うと同時に、こういった当事者同士のドラマを「現実が過去に既に存在していた物語の後追いをしている」と断じてしまいたくなる気持ち、断じてしまって良いのか?という疑問、色々沸いてくる。

いや、でもさ、後追いでもよくね?みたいな気持ちもある。
フツーに生きてて、打ち込みたいものとグーゼン出会えて、色々な心の機微や人間関係の煩わしさを乗り越えて、チームメイトを奮い立たせて監督を信じて、国内最高峰のコンペティションで結果を出そうとすること。
どこにも咎められる話なんかないじゃん。
国が、歴史が、書物が焼き滅ぼされるような酷い出来事を免れて何十年、何百年と存続していれば、ドラマ、活字は山のように積み上げられてしまう。
天井知らずの活字の山は現実の制約を飛び越えて、ドラマとしての美しさを何処までも追求していく。
結果的に、現実の方がドラマの後追いになってしまう。
だって、物書きたちがたった一人、机上でうずくまって頭を捻らせていれば奇怪なドラマはいくらでも量産できる(そのうえ、相応のリワードも期待できるので人々はこぞって机に向かう)。
だが、現実は完璧に自由な人々が数十年の人生で選び続けた選択の連続のなかにのみ存在し、リライトは不可。
だからこそ、小説のように数奇な現実というものは人々から尊崇されるわけですけど。

俺が1番怖いなって、思うことは、意図してドラマの後追いを志してしまって、自分自身の心にどんな心情が訪れたとしても汲み取ることをせず、感じることもできず、ドラマに型抜きされ整形された「心のようなもの」に沿って動いてしまうこと、または沿えない事に落胆してしまうこと。

まーでも多分遅いよね。「パターン」とか「〜なやーつ」という言葉に内包される、「当人にとって初めて体験するものでも(集合知において)既出のものとして受け取る」言葉に目を光らせてないと、自分の生活を生きて行くことは非常に難しい時代になりました。