さあてまた久しぶりの日記だ。何を書こう?何も書けない。キーボードを適当に叩いてみることにします。
深い川の話でもしようかな。
夜になるとそれは縦に長い穴、街灯の明かりがなければ、それは深い穴。
川と言われて思い出す場所は、人それぞれ異なってくるでしょう、私の生家の近くにある川はどちらかといえば下流に近い人口河川で、だから川と言われて思い出すそこに音は無かった。上流の方に住んでいる人からしたら、川といえば通奏低音のように石を洗う音を流し続けるものかもしれないし、音だけでなく、浅瀬で遊んだ記憶、流された片方のビーチサンダルが思い出される人がいるのかもしれない。私の川に音は無い。
家庭の教育方針によって色々あるから、なんともいえませんけど、私の家の周りには上述のように堤防に覆われた河川敷のない人工河川しかなかったので、水に浸かる体験は、お風呂を除けば最初はプールでした。だから多量の水を湛えた空間があって、海パンを履いていた場合、ゴーグルをつけて水に浸かるという行為は不自然には感じられないけれど、水を吸わない繊維もなく、肌に密着して水の滲出を防ぐゴーグルなんてものの存在しなかった昔の人にとって、川、ないし海は、体を浸ける、または潜るものとしてそこに横たわっていなかったんじゃなかろうか。
魚や貝類を取ることはできても、決して底を覗き込もうと考えてはならない、畏れ多い場所だったのだろうか。
もう二度と理解することのできないであろう感覚が、この世にはたくさん存在しているの、悲しいよね。PS2が出たとき、ブラウン管に映し出されるゲーム画面に対して、なんて綺麗な映像なんだろうって、思ったよね?思った。もう今じゃ噴飯ものだもんね。
悪しきもの、淘汰されるべきもの、という風には映らないけれど、懐古する目線でもって、とか、未来から過去を振り返っているんだとか、そういう注釈を入れないことには真っ向から対峙できない。すくなくとも、綺麗だとは思えない。
感覚が刷新されていく事を、人は止められない。他人の感覚であれば、尚のこと止められない。
遅滞に対する感覚が鋭敏になっていくことを、私は止められないし恐れてもいる。一等賞以外を亡き者にする、遅滞なき世界が扉一枚隔てた向こうに待っていることを恐れている。A=442Hzだけの世界を、注文した品がタダで夕方届く世界を、子供がアスファルトに落書きしない世界を、フェデコカグアで混ぜられた出自のわからないコーヒーが存在しない世界を、あなたの髪に触れた途端、規定違反だと石を投げられる世界を。
「…昔はジャズマンになりたかったんです。でも今みたいな、ヒップホップと融合したものとか、一時期のフュージョンに近いもの、揚げ足取りみたいなフリージャズとかは興味なくて、モダンジャズ、バップ、ハードバップとかそのあたりで、フレーズやリックの構築法、新しい解釈で以て既存のスタンダードを再構築する先鋭的なジャズマン、なんかにも興味なくて、普通のプレイをしてギグの報酬を酒に使い込んで、どこかで凍えて死ぬような…歴史に名前なんか刻まれないけど、同世代を生きてきたプレイヤーや当時を知るお客さんから、『ああ、あいつは寡黙だったけど、ダブルベースに対して客が求めるプレイを体現したような4ビートで、実直で奇を衒わない、音の立ち上がりの際に生じるほんの微かなレイドバックが最高にイカしてる、思いやりと真心に溢れたジャズマンだったよ』なんて言われるような人になりたかったんですけど、それって只、生まれる前から死に場所決めてるような頓珍漢だし、もう平成近くなっていまだにモジャズで食っていこうなんて考えてる時点で、全然目の前に現前する世界を見てない、というか…空想の日本を生きてるみたいなもんじゃないですか?まあぶっちゃけ、それでも良かったんです、良かったんですけど、自分より遥かに現実を見てない人と出会っちゃって…そこで僕、不快に思ったんです。気持ち悪いな、って。だせえって。そのときはじめて、自分の鏡像認知の能力に感謝しましたよ。僕はそこで、死に場所を決めてから動くイタい生き方をやめて、落伍者なりに真っ当な競技でもう一度頑張ろう、と思ったわけなんですけど、それってある意味で、僕はイタい生き方の勝負にも負けてるわけですよね。そこに気付いたのが、今でよかった…あの時、不快に思ったタイミングで負けに気付いてたら、僕もう、本当に死んでたかもしれないです」