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久々の日記。何書こう。
ニアリーイコールとイコールは全く別のものである、というか全然違うよ。違うという事実を強調するための、ニアリーイコールという表現なんじゃないのと、思うくらいがちょうどよいかもしれない。という話にします。
何の話かというと週刊少年ジャンプとVジャンプは違いますよ、ということである。どれだけ見つめてもVジャンプに一貴くんと伊織ちゃんのクリスマスイブの話は載ってないし(かなり昔の話)、週刊少年ジャンプに『犬マユゲでいこう』は連載されていない(あのお二人は今もお元気なのだろうか)。

厳密に言えば異なることはわかっていても、ニアリーイコールで「良し」とするものと、やり直しを決めたり命じたりするものがあり、人が誰かと争う時はだいたい、このニアリーイコールを良しとするかが争点となっている、気がする。原状回復の度合いやら、いつもと異なる味わいやら、楽器の演奏やら、多岐に渡ってる。

で…何が言いたかったんだっけ。忘れた。別の話をする。
徳島に行ってきた。仕事で戻るのは3回目。いつも暖かく迎え入れてくださり、調子に乗って、私は保健所の営業許可を、単発のものから向こう5年間有効な許可に切り替えてきた。また行きまっせ。
帰り道が非常に寂しく、どうして徳島と清須は300kmもの隔たりがあるのだろう、などと考えていたり、西日…沈みゆく太陽を背にしながら帰る際、ああ俺は今から太陽のもう沈んでしまった町に帰るのか、太陽くらい瞳が大きかったら、まだ日のある徳島も沈んでしまった愛知も一望できるのになあ、などとよくわからないことを考えながら車を走らせていた。

仮に自分が、太陽くらい体が大きな生命体だったとして、その身体についた眼球が170cmの成人男性に平均的な大きさしかなかったとしたら、一体自分の瞳は、自身の身体を正確に捉えることができるのだろうか。山を見るのに近い心地で、眼前いっぱいに広がっている肉の海を眺めている途中、ふと身体が痒くなって腕を動かしてみたら、視界の肉も動いて、果たしてそれが自分の身体を構成する肉であったことを知る…みたいな心地を抱いて生きてそして死ぬのだろうか。
頭を動かして視界を移動させるだけで、かなりの小旅行になりそうである。
反対に、瞳だけが太陽くらい大きい生き物だったとしたらどうだろうか。
こちらは、比較的簡単に想像ができる。きっと、精巧なミニチュアを見ているような心地で、私の今生きている世界を捉えることになるのだろう。
見ている分には飽きないだろうけれど、その世界に真っ向から対峙しようとはきっと思えないのではなかろうか。顕微鏡の奥に見える微生物たちの世界に、自分の身体も預けてみようとは多くの人が思わない(よね?)ことと似ている。

そこまで考えてみると、私たちの規模に関する感受性って、視界に大きく左右されているのだろうか?という疑問が沸いてくる。もしかして、技術が進んで、たとえば左目でGPSから鳥瞰したような映像が観察できるようになった時、私たちは規模や遠近感に関する感受性をガラッと変えられてしまうのではないだろうか。「遠距離恋愛」なんて言葉が死語になるのかもしれない。
眼球の大きさは人間みな同じくらいだという。嘘つけ、と腫れぼったい一重瞼の私は思う。こぼれそうなくらい大きな人はいる。2〜3歳くらいの子供は顔に占める眼球の割合が違うから、とても大きく見えたりする事と同じだ、と言われても納得できない時はある。
もしかしたら、そうした大きな瞳を湛えた人は、私の瞳同様の矮小な世界観とは異なり、もっと多くの情報を瞳から得ているのではなかろうか。

瞳の大きさなんてだいたい一緒じゃね?と反論する人には冒頭の話を贈ろう。

瞳の大きさに関して、私はニアリーイコールを「良し」とはしないのである。