「北京で蝶が羽ばたくと…」という文言はバタフライエフェクトを象徴する文句で、手垢まみれだと思うので特段触れない。
でも、人生の分水嶺というものは、結果として分岐してしまった特定の時点よりも遥か前に存在していて、さまざまな角度からのお膳立てがある。ことに気づく。今日、実感として気づく。
なんの話かというと、最近継続して書いている、特定の時点にタイムリープして(指定した時点から今日までのエピソード記憶は引き継がないものとする)、全く異なる土地の大学に入って学生生活をやり直す…という世界線の随ひ…随筆?日記?なんだこれは。…文章群の話なのだが、そもそもどうして大学は東京に進学したんだっけ?という点で、バタフライエフェクトとしか言いようのない微細な情報の入力により、私は母校を選んだことに思い至ったのである。
上で言うところの分水嶺は二箇所、いずれも母との会話。
ひとつは、志望校選択の話題で、ソフトだが誘導の意志をはっきりと感じる母のアドバイス、もう一つは、本当に笑っちゃうのだが、サザンが青山学院大学出身であるというなにげない日常会話。
当時の私からしてみれば、偏狭で乏しいながらも、それまでの人生で得た情報に基づいて、とても論理的とは到底思えぬ幼稚な発想で、だが確実に自分の手足で、これからの数年間を選んでいるわけだが、当時から十数年を経て、現状を特定の視座から切り取って眺めている今の立場からすれば、もう過去の私などほぼ他人であり、帰結した現状はまるでバタフライエフェクトである。
そういえば友人の何気ない一言が後々背中を押して、当時の彼女との結婚をなんとなく辞めたと言っていたやつがいたな。
選んでも選んでも立ち枯れ。
『耳をすませば』の夢のシーンで、早く!早く!と席立てられながら、数ある鉱石の中から、雫(主人公ね)が光り輝く石を手にしてみたところ、たちどころに光は萎んで雛鳥の死骸に変わったシーンを思い出した。
あれはほんとうに象徴的というか、素晴らしいメタファーだよね。
服屋で数ある中から一等気に入ったジーパンを買ったとして、帰るときには少し落ち込んでいる、なんて経験は皆さんおありだろうか。
結局欲しかったのはこのジーパンじゃない。
永遠に迷っていられる、無限に近いあのワードローブの前で唸っている時間が欲しかっただけだと悟った時、自分のあまりの悍ましさに膝が震えるものですよね。わかる?