言葉に窮することばかりだ。
言葉に窮することが、あまりよくないことのように受け止められるのは、言葉が会話のためにあるかのような受け止め方をしているからで、それは口語に限った話だと思う。
しかし電子メールに始まりSNSなどで限りなく口語に近い文章で他人と交流する機会が増えるにつけ、文語と呼ばれるような表現や、日記にのみ吐露することのできる、形容し難いがために、「似ているけれど言い当てているわけでは決してない」表現をいくつもいくつも多層的に重ねてこしらえる感情などから、私たちは遠ざかり過ぎているのではなかろうか。のっけから全力投球の語調だな。
誰かとの長らく続く交友関係を言祝ぐような表現について、私の語彙は乏しい。
これからも親交を続けていくことを、お互いに望んでいることを、お互いに信じよう、そう誓いあった友人との関係をどう表現して良いのかわからず『ズッ友』としてしまうのは、あまりに浅ましいわけだが、竹馬の友というほど付き合いも長くなければちんちんかもかもでは性別が異なり、拈華微笑というほど意思疎通はとれておらず、刎頸の交わりというほど重たい関係でもない。これらの言葉の成立と『ズッ友』成立の間、日本人は何をしていたのだと憤りたくなる。あるいは、私が知らないだけで適切な表現が存在しているのかもしれないが、どうなのだろう。
いずれにしても、人を褒める際の語彙は多ければ多いほどよい。なぜか。ラブレターの便箋を真っ黒く埋めつくすことができない人生は寂しいからだ。