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私の生まれた町は文教地区と呼ばれる地域ではなかった。
大学生は大学受験でキャンパスを訪れて初めて目にしたくらいだし、小学校の同級生は結構な人数が中学校で不登校になり、早々に子供を産んだ人、ドロップアウトして不良になった人もいた。
最後まで踏ん張ってその場に留まった人は偉い、賞賛に値する。それはもちろんそうだ。しかしそれが全てにおいて支配的な価値観ではない。いなくなった人の人生も私たちと同様に続いていく。第二楽章の始まりである。

ちょっと前に、民進党が衆議院議員の届け出政党にせず、希望の党に合流すると決めたものの、小池百合子氏から受け入れる議員の選別を食らい、結果的に野党は戦力を大幅に削がれた…といった政治劇があった。事態を招いた前原代表について、「彼の心情を想像することで学べることは多い。決断して失敗して人に嘲笑されて、それを全て受け止めるということは大切だ」といった投稿をSNSで見かけて、イデオロギーを抜きにして人間の存在自体を見つめる素晴らしい観点だと思った記憶がある。

私は私自身の人生を失敗の所産だと断じている。父母の投資した学費、それにまつわる費用に対して生み出しているキャッシュは微々たるものである。現在も、私1人だけでは食っていける状況にないから、さまざまな人に助けられながら生きている。
ただ、投資した分は必ず回収されなければならない、とか、各世帯ごとに経済的に自立すべきである、といった言説を支配的なものだと捉えていないがために、あくせく働くこともへり下って生きて行くこともしない。罪悪感から心を病むことも、誰かを羨むこともない。
自分にしか救えない人がいる、自分にしか聞こえない声や歌がある。青臭いような話だが、第二楽章に耳を傾けない人の多さに辟易とさせられることの方が多く、皆、青臭さを捨てることで得られるリワードに夢中なのかしら。

最後までその場に留まった人は偉い、賞賛に値する。それはわかる。ただしこの理屈は、いなくなった人を糾弾する動機づけにはならない。これはいつまでも私の後を付き従う、自戒の言葉にもよく似ている