子供の頃って母親以外全部怖かったですよねー。俺だけかもしれませんけど。
朝とか起きた時に握力が全く無い日もあって、グーパーをしばらく繰り返すと戻ったりして。身の回りのものの殆どが、自分の身体や手足よりも大きかったから、なにをするにもおっかなびっくりで。自分の体を延長する、使いこなせる道具がまだ無かった。とにかく全部が怖くて、速く走れる同級生もニュースで澱みなく読みあげられる内容も、理解から遥か遠いところにあって、凄みがあった。
この世はそこまで、恐ろしいものばかりではないと気づいてからは、この恐怖感はあまり顧みなくなった。俎上にあるたくさんの選択肢を、飽きるまで眺め比べて、一つを手に取ったり、取らなかったりしていい。手にしたものが動かなくなったのであれば、すぐさまに捨てて新しいものを得ましょう。あなたにはその権利があります。そう言われたわけでもないのに、私は世界のあらゆるものに対して選択を行使して生きてきて、今もそのように生きてきてる。私の眼前にあるのは無数の選択肢だけであり、選択肢の向こう側にしか世界は存在していない。
「寂しいのよ…寂しいのよ」徳島の、あれは秋田町だったろうか、60代ちかそうな風体の男女が連れ立って歩いている最中、女性が傍の男性の袖を掴みながら、必死に訴えているのを耳にした。もう何年も前になるのに、いまだに思い出される光景で、私の口からは一生…選択肢に塗れて、ギャルゲーみたいな世界観でしか世界と対峙できない私のままでは一生、口にできない全身全霊の訴えで…
選択肢を潰さないように明るく後腐れなく立ち回る事が、仕事を途切れさせないためにはマストであると思い、そう振る舞ってきたわけだが、「それを選択する根拠」にも乏しく、「期待できるリワードの明証化」も捗らないけれど、「そうせざるを得ない」もの…身体が動いてしまうものに対する情熱は年々目減りしている。情熱なんて、そんなもの、はじめから無かったとでも言いたげに、世界が知らんぷりをし始める。
眼前の恐怖感を拭いたくて、結果的に情けなく縋るような情熱を完璧に失ってしまうその前に、どうすれば人に喜んでもらえるか、うんうんと唸ったり尋ねたり、間違えたりする時間を作らなければならないかもしれない。
情熱の熾火も消えて久しい生活は、続けていける気がしないからだ。