初めてベースを肩にかけた時、その大きさと重さに扱い切れる気がしないと慄いたし、15フレットまでの道のりは果てしなく遠いものに思われたし、それはコントラバスを手にした時も同様の感情が襲ってきたわけで、今は特に何もおもわない。日常的に手にしていないばかりか、そもそも家に一本もベースがないからだが、触り慣れて手垢に塗れたモノが段々と小さく思えてきて、果ては自身の手足の延長のように扱えるようになってきたら、しめたものであり、そういった感覚の原体験は自転車に乗れるようになった日のことであるように思う。
綺麗にお経をあげられるようになりたいと思う、私の家は本州に多い大谷派の家なので、正信偈くらいは誦じてあげられるようになりたいけれども、思っているだけではいつまで経っても正信偈は正信偈以上のものにならず、一向に私の方に歩み寄ることもない。
土曜日、あだち麗三郎さんの施術を受けた際に、「左手はあなたが思っているよりもう少し大きいものだと意識してみてください」とのアドバイスを受けて、丸く小さく縮こまっていた左手をまじまじと見つめた。
こうした身体感覚の絶え間ない変革に興味があるわけだが、「職人技」だとか「ブルーカラー」だとか言う乱雑なカテゴライズにまとめ上げられてしまう事、まとめて矮小化して認識する人間に出会うといつも悲しくなってしまう。
ただ問題は、そんなふうに悲しい断定をする人に幸運にも私は出会ったことがなく、私は私自身の作り上げた架空の存在によって私自身をくだらない存在というフレームに押し込めている節があり、いったい何と闘っているのだろう、と感じる。
けれど「歌が上手ですね」とか「いい声ですね」「美味しいコーヒーですね」と言われるたびに、吹けば飛ぶような、国勢が変われば真っ先に顧みられなくなるような、嗜好品を売りつける商売をしているのだな、私は河原乞食なのだな、と再認識する。
だからどう、というわけでもないし、その十字架を背負って丘を登ろう、という覚悟はしているつもりである。