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穏やかでお互いの友好を讃えあう会話にはいつか終わりの瞬間が与えられて、心中か死別とセットの性交、または殺し合いの結末のみが手を広げて私たちを待っている…わけはないのに、どうしてそんな気がしてしまうのだろうか。
三十余年生きてきて、殺されたことも腹上死したことも、誰かを殺したこともない。しかし薄ら寒いこうした予感だけはいつも付き纏っている(または、頭の片隅に、シェアは小さくても確実に居座っている)わけで、かつて『ぼのぼの』に描かれていた、「握手をやめるタイミングがわからない」という話に通じていると思う。
突拍子もないところに繋がっているような気がする?そんなことはないよ。
他人という生き物との接触のあり方という意味で、性交と握手と殺し合いは同じ地平にある。

人間が生活の基盤を、狩猟や採集から農耕に求める方向に舵を切ってから向こう、母以外の他者というものは、危険人物から、何かしらの恩恵を与えうる存在へとシフトしていったわけで、言語によるコミュニケーションは他者との間に走る緊張感をほぐす役割を担ってきたんだろうけど、一人暮らしをして有価証券の配当や利ざや、プラットフォーマーから得られる広告収入などで生計を立て、Uber eats や amazonで届く完全栄養食で腹を満たしている人にとって、他者のリアリティや接触の動機付けは果たしてどんな具合なんだろうか。狩猟時代と変わらないくらい、他者は危険な存在として認識されているのではなかろうか。全部憶測で言ってますからね。悪しからず。

私は歩く。
私は歩いて人に会い、言葉を交わして微笑みあったり、会話が途切れたら音楽に耳を傾けたりする。たまに車にも乗る。コンビニの店員から何事かのtipsを授けられたり、ホームレスに肩を掴まれてタバコをせがまれたり、すし詰めの電車に乗ってどこかへ移動したりする。もしかしたら車に轢かれて、間抜けな死に方をするかもしれないし、畳の上で死ねるかもしれない。そんなことを考えながら現場に辿り着き、忘れ物の多さに辟易としたり、コインパーキングに停めた車の中でタバコをふかしながら突っ伏して寝たり、メールにほくそ笑んだりしてみる。

私たちの体の至る所に打ち付けられた楔が、私たちをマトモな人間たらしめていて、だから大方の人に訪れる人生では、わたしたちは殺しも殺されもしないのだろうな。
今日はポッキーの日です。