どうして私は水平線の彼方に去りゆく汽船の一隻すら、それを最後まで見届けられないのか?
世界は5分前に作られた、あるいは、世界が5分前に作られたわけではないことの証明をしてみせよ、といった話を読んだ覚えがある。
小さい頃は風呂が怖くて、目をつぶってシャンプーを洗い流しているうちに、湯船から顔を上げる間に、世界が少しだけ変容しているんじゃないか?といった恐怖を感じていた。
市営の科学館…電気の科学館だったか…?尾張の子供らにとってそこは、アカデミックな好奇心とゲーム要素が大変良い塩梅でミックスされた恰好の遊び場で…二人連れで鏡の前に立つと、傍の人間の姿を映し出す妙な鏡があった。大変失礼な話だが、私は鏡に友人の顔を見出した瞬間、恐怖と不服、怒りに総毛立ち、目眩がしたのを覚えている。
身体が私の精神に、かなりの数の楔を打ち込んでいる。頭や心でばかりものを考えているわけでもなさそうだし、そもそも心というものが、臓器たち、血液、骨らの思考の総体のようなものだとしたら、私は結局私の体の作り出す意識のモンタージュみたいなものだろうか。
宇宙の形は、人間に知覚できる形にしか、私たちには見えていないらしい。誰が言ったんだっけ、又聞きだろうか。
靴底で誤ってふみ潰したあの蟻は、蟻の世界では今まさに踏み潰されつつあるのだろうか。