終わりの合図

朝焼けと夕暮れ時が、時々区別がつかなくなる。
なにを学のないことを言っているのだか、と嘲笑われてしまいそうだ。
だけれども、例えば目が覚めたら、全く知らない土地のバス停のベンチに横たわっていたとして、24時間表記の時計も手元になく、時刻を尋ねる人出もなかったとしたら、私は頭の上の赤い空を、なんと呼ぶのだろうか。
瞬きをしているあいだに、外観は同じだが何かが少し、瞬きをする以前と決定的に変わってしまった世界に迷い込んでしまったらどうしよう。
昔から脳裏をかすめる児戯のひとつである。今でこそカッコつけて、児戯なんて言っちゃうけれど、当時は本気で心配していた。
島を去るフェリーの甲板に立って、さっきまで楽しい時を過ごした島を、見えなくなるまでみつめていたつもりなのに、目の渇きに耐えられず、滲んでいきながら閉ざされた後の視界の先には、夜霧と船尾を洗う飛沫の向こう側に、島の姿なんて影も形もなくなっていて…また違う世界に迷い込んでしまったのだろうか、そんな風に考えるときもある。
自転車に跨って、あてどなく、ひたすらに両輪を働かせる。
息を切らし、肌を焼かれながらたどり着いた先の、四角い大きな標識に、たとえば関ヶ原とか、銚子、といった地名が書いてあっても、それが地図の上に記された土地と果たして同じなのかと、疑問がぬぐい切れないのは、誰も夕飯に呼びに来ず、終わりの合図を得られなかった遊びのせいだろうか。
あの時のかくれんぼは、もう終わったのだろうか。