「なぜ、私たちは哲学的ゾンビではないと言えるのか?」という問いがある。むしろ言いたいのだが…私は哲学的ゾンビだ。あんたはどうだ?
ジャズにはリックと呼ばれる技術がある。短いフレーズの定型を表し、プレイヤーはこれらを適宜組み合わせて演奏し、ソロやなんかを構成する、らしい。語尾を濁したのは、リックを自在に操る高みに至ることなくベースを置いてしまったからである。
したがって、思いつきでポンポンとスムーズなベースラインが演奏できたとしても、それが私の話す音楽的な言語であるのか、昔どこかで聞いたフレーズを「喋らされて」いるのか、区別がついていない。
「あなたといると、月が綺麗ですね」
「なにそれ、夏目漱石じゃん」
言葉も音楽もレコードされる。時代を経れば経るほどに、アリュージョンが積み上げられていく。
私が自らを哲学的ゾンビだと見做しているのはその点で、私は受信した信号(言葉だったり、発言を要する場面だったり)に対応すると判断した応答を、かつて見聞きした事例から選んでいるに過ぎない、という感覚が、昔から拭えなかった。
「マジで?」とすんなり言えるように鏡の前で練習してる中学生なんて、今のところ私以外出会ったことがない。
だがしかし、よく考えてみたら、拭えない疑念を感じている時点でクオリアが存在していると言えなくはないのかもしれない。
こんな短い日記の頭と終わりで、主張を変えることになるとは思わなかった。
私は人間のようです。