煙管を吸う、呑む、のが好きである。お前が煙管なんぞ、10年早いと言われ、それからもう8年は傍らにあるわけで、あと2年で、ジャストタイムである。
何が?知らない。10年早いと言ってのけた輩に聞いてくれ。これじゃまるで、慣用句の分からない朴念仁みたいだ。微笑みだけ返して、人は静かに私に背を向けるだろう。
家族でニコチアナの世話になり続けたのは祖父と私くらいであった。彼の消極的マッチ・コレクション…つまり手慰みと貧乏人根性のために、使うわけでもないのにテーブルに着くたびに持って帰った、近所の喫茶店が拵えたノベルティのマッチ・コレクションを、孫の私は無きものにせんと一箱一箱、使い切っている。
喫茶店は馴染みの客と共に歳を取る。祖父のコレクションにある全ての店を私は知っている。だがそれらの店のほとんどに、私は足を踏み入れたことは無い。環のそと、私は呼ばれていないのだ。
その一つ、Bという店のマッチ。
可愛らしいマスコットキャラクターと、裏面にはポエムとも呼べぬ出来の、喫茶店を舞台にした恋の駆け引きのセリフが2,3節。
いったいこの、バイパスに縦横を引き裂かれ、名古屋市に街の機能の殆どを依存し、子供が親の顔色を見なければどこへも移動できず、愚にもつかない書店すら一つ残らず潰れた、この農村、この鉄屑の熱を帯びた匂い、ドブ、スクミリンゴガイ、このディーゼル車、いつまで経ってもエレベータのつかぬ駅、この村をどう見れば、喫茶店で待ち合わせ、語らいときに涙する若人の存在を期待できるのだろうか。
私は怒りを覚える。
己の浅はかなステレオタイプの喫茶店のイメージを一方的に誇示して来た店に対してではない。
そのマッチを、もう作ってはいないことについてである。