記憶は場所に依存している。
それは私がいつまで経ってもお皿を返すことができないでいるカフェの事や、遠く離れた友人との思い出があまり積極的に思い出せない事に対する、フワッとした言い訳である。皆は諦め、私に対して通俗的な理解を深める事を放棄する(家族はいるの?なにをして収入を得ているの?最近の悩み事は?)。
『無くした海に来て』というタイトルで音楽のイベントを企画したことがあった。まだ実現できていないためか、私は「来て」と声をかけてくれる「無くした海」がどこにあるのか、さっぱり思い出せなかった。愛知にないことは確かだった。記憶は場所に依存する。そこにいても、私には海のことが思い出せなかったからだ。
今日、私は2年ぶりに、車窓越しでなく鼻を刺し肌や靴を砂で汚す存在として海と出会った。東京湾。ここだった。全部思い出した。
身体を壊してしまいかねないメランコリーと、たくさんの友人達を夢の中に押しやった記憶。そして彼らが息をして泣き笑い格闘しながら生活を送っているという事実。
早く離れてしまいたい。または、もう離れたくない。砂粒ひとつ、愛知に持って帰るものか。私の歪でおぼつかない青春の、カタコンベにされていた海。