彼らもまた死刑囚

幾度となく記してきたが、私は死ぬのが怖い。うーんと怖い。一人でいると、いつも死のことが頭をよぎり、息が上がり、心臓は早鐘を打ち、私はそれが治るまではずっと、不調をきたした動物園のネコ科動物のようにウロウロと歩き回ることにしている。

私にとって、死はこの世で最も恐ろしい出来事だ。

だが、この世で最も苦しい出来事ではないかもしれない。テレビを見ていて、たまに思う。

「士農工商穢多非人、河原乞食に木偶回し。人形使いはつまり、身分制度の最も卑しい位なんです」

人形浄瑠璃の講師がのたまう。見世物は、見られるものはおしなべて誰よりも身分が低いのだ。私はおおざっぱにそう解釈する。

見られているものたちは、表現とかいう言葉のこしらえた大きな隠れ蓑にくるまって、レコードし得ないもの、かつてレコードし得なかったものを再現する。

そこに、技術とかいう欺瞞が、表現の世界に巧拙なんて概念を持ち込んでくる。見られているものたちは、誰の指図も受けず、自ら進んで見世物になろうとする。

視覚に訴えかける創作物は人に大きな感動をもたらす。時に人生を変える契機を与える。しかし芸術は、人間存在の下位概念であり、ひとたび創作物としての存在に堕した人間に対し、人々は心ない言葉をかける。

モンペ穿いて野良仕事を終えた浅黒い歯抜けの祖母が、ブラウン管の中の着飾った芸能人に、面と向かっては決してかけぬような酷い言葉をつぶやく。彼女は創作物と生活人の力関係を、理解していたのだろう。

テレビを見ていて、たまに思う。彼らがもし皆、死刑囚だったとしたらどうだろう?

死刑執行までの恐怖、終局の苦痛に耐えかねた彼らに与えられた、見世物として生涯を終えるという使命。

ありとあらゆる罵詈雑言、責め苦、嘲笑や薄給の苦しみ、追い剥ぎのような幻想、理解者の欠如、親の崩壊…

彼らは何に殉じていたから、待ち受けているであろう困難に対して理解を示さず(あるいは理解を示した上で)見世物の世界に飛び込んでいくのだろうか。

私はどうして飛び込まないのだろうか。信じるに足りるものが欲しいんじゃないのか?